英語を勉強中の皆さんに質問です。
周囲の人は、皆さんの英語の勉強を応援してくれていますか?
本日のブログでは
幕末から大正にかけて生きた赤松大三郎という人の、語学学習にまつわる興味深いエピソード
をご紹介したいと思います。
「励まし合って勉強出来る英語友達がいない」
「英語をやっていると言うとからかわれる」
と悩んでいる方を、チョッピリ元気づけられたら嬉しいです(^^)
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まずは
「赤松大三郎って誰???」
というお話から。
赤松大三郎は江戸時代末期、深川で下級武士の子として生まれ、最終的には明治政府で海軍中将従二位勲一等男爵まで出世します。
造船技術について造詣が深く、「日本造船の父」などと呼ばれることも。
まぁとりあえず
「チョ〜昔、チョ〜出世したエラい人」
と思っていただければ間違いないかと(ザックリしすぎ!?)。
そんな大三郎は、父親の勧めで15歳の時からオランダ語を習い始めます。
なんでも大三郎の父親は、下田で奉行とタウンゼント・ハリス(日米修好通商条約を締結したアメリカ人)の交渉に立ち会った経験から
「これからは諸外国との交渉が多くなるから、若い者は英語が出来なくては駄目だ!」
と考えたそうです。
江戸時代にすでにそんなコトを考えていた人が居たなんて、なんだか驚きますよね。
そして、英語を習いたかったけれど、オランダ語の先生しか居なかったのでオランダ語を勉強した・・・というのがいかにも江戸時代っぽい(笑)
さて、ここからがいよいよ本題。
大三郎がオランダ語(当時は和蘭語と呼ばれていました)の塾に通っていた時のエピソードです。
其頃和蘭語を学ぶ者は大部分は医者を志すもので、組屋敷の武士等には殆ど無かった。私が坪井塾に通学する頃組屋敷の若い人達は、私が稽古の往復に出会うと、「大さん、又ペロペロのお稽古かネ」などと揶揄(からか)ったものであった。
『咸臨丸 海を渡る』(第四章 咸臨丸の人々 赤松大三郎より)。
このエピソードを読んで、どう思いますか?
私は、21世紀の日本と江戸時代の社会の様子があまりにもソックリなので、残念とか呆れたを通り越して思わず笑ってしまいました(´∀`;)トホホ・・・
当時は武士がちょんまげを結い刀を差して歩いていた時代です。
まだ10代だった大三郎が仲間たちに
「大さん、又ペロペロのお稽古かネ」
とからかわれて、悔しくなかったはずがありません。
ですが、大三郎はその後も熱心に勉強を続け
・「咸臨丸(かんりんまる)」という日本初の軍艦に乗ってサンフランシスコに上陸
・幕府の留学生としてオランダに5年間滞在(途中、イギリス、ドイツも訪問)
・明治海軍で造船技術を指導
などなど、幕末から明治にかけて目覚ましい活躍を見せます。
もし大三郎が仲間にからかわれた悔しさからオランダ語の勉強をやめていたら、彼のその後の人生はまったく違ったものになっていたでしょう。
現代の日本でも、英語を勉強することに対して、周囲の理解が得られない場合もあるかもしれません。
でも英語を勉強することで、自分自身の中に手応えとか、何か未来に通じる光のようなものが感じられるのであれば、絶対にそれを信じて貫くべき(`・ω・´)b
「又ペロペロのお稽古???」
とからかってくるような外野の雑音は無視です!無視(笑)
以上
江戸時代末期の語学学習にまつわる興味深いエピソード
のご紹介でした!
英語を勉強している日本人で、今回のエピソードを知っている人はほとんどいないのでは???と思い記事にした次第です。
辞書も思うように手に入らなかった時代に外国語を勉強した人達のコトを思うと、本当に頭が下がりますネ!
さぁ、明日からまた英語がんばろう☆
辞書モ参考書モCDモアルノニ、ドウシテ英語ガ喋レナイノ・・・?